staffblog スタッフブログ

私とプログラミング その3

スタッフブログ

2024.01.16

前回、プログラマーになったところまで書きましたが、今回はその続きから。

プログラマーとして入社して

 さて、専門教育を受けた経験は一切なく、独学でしか学んだことのないプログラマーが誕生したわけですが、それはもう入社当初から大変で大変で・・・というほどでもなく、まずはBASIC(80年代PCに標準で入っていたプログラム言語)をやっていたということでVisualBasic(Windowsをプログラミングに特化したBASICを元にしたプログラミング言語)の教本やマニュアルを見ながら、とりあえず数日自由に、というところから始まります。
 この「Visual」な部分をマスターするのはそんなに大変というわけでもなく、何となくいろいろと作っていたところ、それを見た社長が、上司に「こんなにスキルがあるなら次を」ということになり、とりあえず社内作業でやっていたCOBOL(当時ホストコンピューターを使った大規模なシステムに多く使われていたプログラミング言語)を学ぶことに。
 このCOBOLに関しては、完全な学習マニュアルみたいなものがあって、朝から晩までひたすらそれで学習していくことに。「BASICに似ているな」と思いつつ真面目に勉強すること約10日で完了。さて実戦に、という状態になりつつも、仕事を指示する人が忙しすぎて、「とりあえずこの簡単な修正を」「テストはいらないから」という感じでいくつかもらったものの、あっという間にこなしてしまったのです。
 この状況を見ていた社長、大変まずいと思ったようで、よそのシステム会社で教育込みで仕事をしてもらうということで話をまとめてきました。

はじめての実戦プログラミング

 この仕事、超有名な大手企業のシステムなのですが、COBOLを日本語化したものを使用していて、「なんじゃこりゃ」という感じの世界だったのです。誰もが簡単にプログラムできるように作ったつもりらしかったのですが、結局は専門知識なくしてはできないものなのに、簡略化したせいで機能が減ったり、書き方がわかりにくかったりというもので、逆に大変でした。
 当然初めての仕事にわけのわからないシステム、おまけにシステム会社の担当が入院してしまうという踏んだり蹴ったりの仕事で、2か月でボロボロになりながら終わるという地獄のような日々を過ごし、もうこれは続けられないと社長に泣きついたぐらいでした。

「踏んだり蹴ったり」から「安定」の職場へ

 それを見かねた社長が次に私を送り込んだ先が、地元超大手インフラ系の企業。前回同様の仕事が続くなら辞めてもいいと思って行ってみると、教育体制、指導体制もしっかりしていて、きちんとスケジュール管理もさていて、死ぬ気で働くような状況ではありませんでした。しかも、本家本元のCOBOLのプログラミングということで、マニュアルで勉強したそのとおりにプログラミングできる。そんなところでした。
 後々知ることになるのですが、20世紀末当時のこの業界はブラックが当たり前のような状況だったらしいのですが、ここは大手企業のグループ企業であるシステム会社なため、親会社の労働組合がブラックな働き方を許してくれない状況だったようです。それでも親会社がいろいろと労働問題でニュースになるなどして、どんどんホワイトになっていき、一部の社員さんは「残業代が減って困る」と言っていたぐらいです。
 このような環境のよい会社で、15年ほど仕事をさせていただくことになるのです。ちなみに、私の立場は「孫請け」です。大手企業のシステム会社→コンピューターメーカーのシステム会社→私の会社という具合です。「社員じゃないから」とか「孫請けだから」ということで一切不利益を受けたことはなく、そういう点でもホワイトだったと思います。
 派遣ではなく業務委託という契約なので孫請けでも問題ないのですが、世の中で二重派遣が問題になった際に大手企業のシステム会社から直で契約になりました。これもホワイトを目指す親会社の方針です。

 この地元超大手インフラ系企業での仕事やその後については次回以降につづく。

この記事をシェアする